― 仕事では大変お世話になっており、改めてお話しをお伺いするのは少し気恥ずかしさを感じますが、はじめに、当社との関係のはじまりから伺いたいと思います。
もう20年も前のことになりますが、それ以前からお付き合いのあった、会津若松にある漆問屋「坂本乙造商店」の坂本朝夫さんから、「会津の仏壇メーカーのショールームのディスプレイを見てもらえないでしょうか?」。と連絡がありまして、見るぐらいならと軽い気持ちで会津に出かけたのが始まりでした。
そのショールームは、デザイナー水谷壮市氏(※1)による、神秘的で斬新な見事な空間でしたが、そこに置かれていた仏壇とは全く似合わず、余りの違和感にその場に立ち尽くしてしまいました。
それは、単にディスプレイを直すだけではどうにもならぬ事であり、そこには各種、各地の伝統産業が抱える問題が凝縮されており、その中でも、精神世界にかかわる、神・仏・祈りの領域であり、近年ではいちばん難解な仕事に思えました。しかし、「これを放置しておくわけにはいかない」『現代の生活の場・人』と『ものづくりの現場』が遊離しない道筋を探らねばと感じたことでした。
― お恥ずかしい限りです。その想いから、新しい祈りのかたちとして「厨子」の開発に至るわけですが、その経緯を教えていただけますでしょうか。
私ひとりではとても解決はできぬ難題でありましたが、幸いにも私には、信頼でき、心許せるクリエーター仲間がおります。その仲間に力を借りることで糸口が見つかるのでは……と考えた時、その最初のテーマとして、頭に浮かんだのが「厨子」でした。
厨子といえば法隆寺の国宝「玉虫厨子」が頭に浮かびますが、そもそも厨子というのは「大切なものを納める箱」のこと。古来より、人が命を繋ぐために一番大切なことは食べること。従って、食べる道具である、器や調理具などを納めた棚箱を、厨子と称していたとのこと。古墳時代の末期に仏教が伝来し、飛鳥時代に入り朝廷・貴族社会の中で仏教が国を治める力となりましたが、その時、大切なものとして経典や仏像等が納められるようになったと云われています。
― なるほど。ではなぜ、「仏壇」ではなく「厨子」だったのでしょうか。
仏壇は、江戸時代に幕府の人民統制として、檀家制度を定め、先祖・親・故人の位牌等を納め祀ると共に、「家」を単位とした、精神の拠り所としての形でもありました。
しかし、第二次世界大戦後、家長制度が廃止され、個人の自由が重んじられる時代になりましたが、その分、家族の絆が薄れ、核家族・単身世帯が増え続けた昨今。テレビや新聞から流れてくる突発的な悲しいニュースに表れるように、社会の揺らぎ、家族の崩壊などで、人の心が失われ置き去りにされていく時代であればこそ。先祖や親を弔い、静かに手を合わせ、自分の心を取り戻し、日常の平安・希望を願う、時間や場が必要ではないかとの思いに至ったこと。
さらに、暮らしの場から床の間が消え、座卓からテーブル・椅子へと生活空間が様変わりする中で、従来の祭壇などは、置き場を失い、手つかずのまま。
ならば現代の住空間に似合い、現代の人それぞれの生き方に寄り添い、大切な『コト』『ココロ』を安置する、現代の祈りの箱「厨子」をとの思いに至りました。
― そのような思いの中で、なぜ、最初の厨子のデザインをインテリアデザイナーの内田繁氏(※2)に依頼されたのでしょうか。
内田さんとは50年来のお付き合いでした。悲しいことに4年前に亡くなられてしまわれたのですが、最初にお願いする人は内田繁さんと決めていました。
それまで、多様な難題の仕事をご一緒する中で、海外文化に触発されながらも、日本文化の根源性を見失うことなく、「山川草木悉皆成仏(すべてのものに神宿り命あるものは死して再び自然に帰り神となる)」という、日本文化の根源的感覚を共有しているという信頼感が有ったからでした。
まず頭に浮かんだイメージは、内田さんが、1999年オランダで発表されたキャビネット『マトリックス』。そして、翌年ミラノで発表された木製棚『ホリゾンタル』。それを原型に、今までの仏壇や厨子の対局にあるような、重圧感や、威圧感から解放されながらも、清浄感のある『現代の祈りの箱』を仕立てたいという強い願いがあったからでした。
その話を持ちかけたとき「こんなものでいいのか?」と云われましが、「内田さんが作るものには神聖感があり、凜とした緊張感もあり、新しい祈りのかたちとして象徴的なものとなるはずという確信があります」と伝えました。
シンプルなフォルムに、ブルーやレッドなどの色使いはこれまでの厨子の概念をはるかに越えていますが、リビングルームのインテリアとしても違和感がなく、現代の暮らしに適う、象徴的な生活美・祈りのかたちが生まれました。さすが内田さん、内田さん無くして、未来への扉は開かなかったと思っています。
― そのような今までにないデザインを見たときに、当社の職人はとまどったと聞いています。
その新しい厨子の製造を手掛けたのは、伝統的な仏壇を作り続けてきたアルテマイスターのベテラン職人たちですから、そう簡単には運びませんでした。例えば、デザイナーは角をシャープに出したいと、図面に注意書きを書いたとしても、職人の手が習慣的に動いて角を落としている。「角を立てた天板を作る」というのは、やってはいけない仕事だった等々、大変でした。
技術者集団と、内田繁氏とのそれぞれのプライドの対決は、日に日に融和され始め、その後、様々な習慣を越えたあとの仕事の確かさ、熱心さ、美しさはデザイナー内田繁を「やるじゃないか、いいね」と驚かせ、喜ばれました。職人軍団もまた、褒められて、未知なる世界を「かたち化」していくことに次々と挑戦をはじめ、基礎技術あってこそ頼もしき力となりました。
最初に話しましたように、伝統産業が抱える問題は、デザインという言葉に踊らされ、技術がありながらもそれを現代に活かしきれないことにあります。心あるデザイナーとのものづくりは、伝統の技術を現代に活かす、大きな刺激を職人軍団に与える取り組みとなりました。
― 厨子の開発と合わせ、当社社員の意識改革にも取り組まれました。
始めた当初、ベテラン職人と若い人たちとの間には、殆ど会話がない現場でした。年長者は、礼儀を知らない若者に教える気になれないと言い、若い人は、年のいった人にいろいろ言われたくない、という雰囲気でした。そこで、社員みんなが集える心地よい空間を設けてはと、社長にお願いをいたしました。
2005年だったでしょうか。新たに作られた食堂のオープンは年の初めにと計画し、事前に若手社員を募り、オープニングパーティーとしての「新年会」を企画しました。まず、「正月とは何か」。正月のお飾り一つにも意味があり、正月に使う柳箸は、雪が積もっても雪折れしない柳の木の強さに倣い、強い体、強い心でと願う意味がある。この国の『精神文化のことわり』を心と体で学びながら、お節料理や正月飾りもすべて作り整えました。
新たにつくられた食堂で、若い社員が準備のすべてを体験し、見事にもてなした時、長老格の人々が「やるじゃん!」と。その日は近年にない大雪の正月でありましたが、皆さん機嫌は上々。それがきっかけで壁が外れ笑顔が生まれ、雪解けの様に世代間の歩み寄りが始まったと感じています。
会津魂でしょうか、「やらねばなりませぬ」の会津の藩政以来の心意気が、今に生きていると感じた事でもありました。
― 余材を活かす取り組みとして始まった当社オリジナルブランド「人と木」も意識改革の一つですよね。
そうですね。仏壇・仏具を作る材はどれも立派ですが、形を抜いた残りの材は、ストーブで燃やされていました。ならばと、余材を活かす取り組みとして「人と木」というブランドを立ち上げ、技術あるベテラン職人の力も借りながら、若い人たちが自由なものづくりを考える場を設けました。
時代を読み、感じたことを形にする中で、必要とされるものを見極める、目と心を育むことが目的でした。自分の日々を見直しながら、これから必要とされることを考え開発する目線が、少しずつ養われ、本業にも活かされ始めていると感じられるようになりました。
― 様々な取り組みの集大成として、本社がある福島県の会津で、2011年から取引先の方々を招いて、展示会を開催し始めました。展示会はその年の新商品を発表する当社の一大イベントとなり、年々、来場いただく方が増えています。
当初は、営業さんを始め、「会津まで来てくれるかと」訝しがる人が多かったと思われます。しかも、初年度はあの3.11東日本大震災の年の6月でした。しかし、ありがたい事で、多くの方々がおいでくださり、私も感謝いたすばかりでありました。その様な中で、作る人と商う人が、直接出会える場を設けることで、作り手も心が奮い立ち、商う人も、使う人への確かなメッセージを伝えられる、絆を育む場となりました。
ITの時代が来ていますが、機械に委ねられる、遠隔地操作も便利ではありますが、人の心、人の手がどこかに置いていかれるようになってしまったら、本当のものづくりの歴史は続いていけるだろうかと案じられます。
ましてや、人類存続の危機と言われるコロナ禍の今、改めて、自然の命をいただき、ものは生まれるという事を、今まで以上に心に深く刻む時であればこそ、人の暮らしに寄り添うものを、人の心が潤うものを作り続けていくことが大切な事ではないかと、願い続けています。
そのためには、手間暇間が掛かっても、この会津の地にて、確かな人の確かな手によってものが生まれる処をご覧いただくことで、信頼感ある企業として、未来へ歩み続けて行って欲しいと思っています。